昭和47年11月08日 朝の御理解
御理解 第41節
『信心は話を聞くだけが能でない、吾心からも練り出すがよい。』
お道の信心は、話を聞いて助かる。話を聞いて助かるという事は、話を聞く事によって、その話によってそれぞれに、それぞれの信心の程度、またはその人の頂き方と言うか、話を聞く事によって、おかげの頂けれるヒントを得ると言う事。ここんところをどうも矛盾があるというふうに言う方がありますよね。教祖さまは話を聞いて助かる道とおっしゃるんだから、話を聞くだけでよかりそうなもの。
次には、話を聞くだけが能ではない、吾心からも練り出せとおっしゃる、そこにその矛盾があるように見えますけれども、そうじゃないですね、今頂きますことは。話を聞く事によって助かるのですよ、なしかと言うと話を聞く事によって、それぞれの心の中に一つの悟りのようなものが開けてくる、又は悟りが開けてくる、その話によってヒントを得て、ああそうだと、自分なりのものを頂いていく、勿論、おかげの頂けれる頂き方でなければいけない事は勿論です。
話を聞いてですね、楽な方えと楽な方えと、楽な生き方にヒントを得ていく人がありますよね。例えば家に病人があったり日傭取やらは毎日参って来る訳にいけん、だから壮健な時に信心の稽古をしておけ、と仰る様な御理解があります。そうすると本当にそれを頂き違えてから、只それを自分の都合のよか時だけ参ると言った様な頂き方ではおかげにならん、ね。よくよく分からせて頂くとです、もう本当言うたら壮健な時と言うのは、何でもない時、健康な時の方が実を言うたら多い訳なんですから。
その時を愈々信心の稽古の時に当てようと言う事なんです。只日傭取やら家に病人があったりしたら参られん、だから参らんでもいいと言った様な風な頂き方をする人がありますよね、これはもう万事にそう言う頂き方をしようとすれば出来るんですけれども、問題はおかげをより頂かせて頂くために、練り出すのでありますから、いよいよ御神徳を頂かせて頂くことのために、練らせて頂くのですから、そういう有り難い答えが出て来る頂き方をしなければいけません。
信心は話を聞くだけが能ではない。確かにそうです、だから吾心からも練り出せ、話を皆さんがこうやって聞いて下さる、そしてそこから有り難いものが練り出されてくる。昨日、教報が送ってまいりました。毎月本部から教内に送ってくるのです。その中に今度の大祭の時にお話をなさっておられる先生方の話がでております。パラパラとめくって拾い読みしたんですけれども。
この夏にちょうど夏修行があっております時に、大阪の明度先生たち御夫妻がここに見えましたね。あの先生がお話しになっておる。「信心生活の実践」という講題のもとにお話を。これは私全部読んでおる訳ではないのだけれども、ちょつとここに眼がとまったんですけれども、それは阿倍野の先生の事が書いてある。阿倍野教会の伊藤コウと言う先生、もう七十八からなられます。まあ現在名実共に日本一の教会、女の先生、もう日に、とにかく何千人というお参りがあるというのですから。
私はいっぺん、もう十四、五年前でしたでしょうか、御本部え月参りさせて頂いておる時に、合楽(椛目)からも団体参拝をしておる丁度その時には、お広前にたくさんな団体がお参りしておられた。どこの団体だろうかと思うたら、阿倍野の教会。毎月二列車ですかね、お参りがあるそうです。それは大阪と金光ですから、少しは近いからもありましょうれども、大した事ですよね。
その阿倍野の先生がちょうどお届けをなさっておる時に、まあそこでね、私どもはそこのあたりのところで、先生のお届けを見せて頂いたことがある。とにかく本部の障子をぜーんぶ取り払ってしまいますからねえ、あのお広前の。まあここで言うなら、この前の大祭の時のように、この障子を一つ二つ三つ四つ、ここも取ると二百畳余りになる訳ですねここも。まあ大祭記念祭であの位ですね、うちあたりは。ところが本部のお広前の障子を段々とって、あそこいっぱいになる。
もう入りきらん位になるお月参りが。そして阿倍野の先生ちゃどういうお方じゃろかといつもこう思っておりますからねえ。そしたら阿倍野の先生、あれが阿倍野の先生だというので、私共は好奇心も手伝って見せて頂いておりました。そしたら沢山のお初穂を何人かの先生方に持たせて、そしてまだ三代金光さまでしたが、金光さまの前に出られた。そしてここでお届けされますのに、すぐ側ですから、様子やら仰ってある事が聞こえるのです。それでどういうことかというと、もう何も仰らん。
「金光さま、おかげを頂きまして有り難うございます」とそれだけであった。もうその、「金光さまおかげを頂きまして有り難うございます」のその有り難うございますの内容、もうそれはね、とても千両役者でもあげな表現は出来まいというようにあった。私はその時参り合わせた方達に申しました、「ちょいと皆さん今の先生の有り難うございますを聞いたか、あの有り難うございますの中身が阿倍野の現在の教会になっとるとよ」と言うて話した事でした。
だからどう言うような信心させてもろうたら、あのような素晴らしい有り難い有り難うございますが、言えれるようになるだろうか、誰だって金光さまおかげを頂きまして有り難うございますは、みんな教師全部が申し上げておる事ですけれども、その中にね、込められておる有り難いと言うものがね、もう体全体から、そのお声の中から、溢れておるという感じです。はあ、あれだけの人が助かるというのは、ただ伊藤コウという先生の、あの有り難うございますの中から生まれておるんだと私は確信しました。
以来どう言う風に信心すりゃ、ああいう風に有り難うなれるだろうかと。これはもうあれが十四、五年前だとすると、十四、五年くらいいつも考え続けておった事でした。ところがたまたま昨日教報を見せて頂いて、もうようもここが目についたと、ここだけ、明度先生が話しておられるから関心もあったんですけれど、その中に先生の事が書いてあるのを見せて頂きましてね、もうそれこそ十五年間求め続けておるものがね、与えられたような気が致しました。
今日はそういう大変な事を聞いて頂こうと思うのものですから、少し読んでみましょう。『先年阿倍野教会の伊藤コウ先生と若先生が泉南教会へ来られた。その時に妻が、先生に何か御教えを頂きたいと申し上げた。先生は即座に「信心を頂いておりますと、年をとる程有り難いと思う事がふえて参りますよ」と仰った。私は七十八歳になる先生が年をとる程、有り難いと思う事が増えて参りますよと仰る顔に、有り難いと言う事が充ち充ちているのを見せて頂き。
教祖は信心をすれば、一年一年有り難うなってくると教えて下さってあるが、有り難いと思う事が増えて来ると言う事は、一年一年信心をしているという事で、本当の信心をしていると、年をとるほど有り難いと思う事が増えてくると思わせられた。今まで気がつかなかった事にも、あぁあれも有り難い事、これも有り難い事と、喜ぶ事が増えてくるのである。』「信心を頂いておりますと、年をとるほど有り難いと思う事が増えて参りますよ」というところ。ね。
ですから日々が信心の稽古をさせて頂いて、もう日々おかげを受けておらなければ、言える事じゃないです。信心しよってどうしてこんな事が起こるじゃろか、と思うような信心が、何十年続いたって駄目なんです。信心をしておるとです、信心をしておると、おかげ、そのおかげ、そのおかげが積み重なって、いよいよ有り難いなと思う事が増えてくる、それはそうでしょう七十年より八十年、八十年より九十年、有り難いと思う事が増えてくるわけなんです。この辺のところをね。
また次に、ここが決め手というところが話ておられます。『今年の春、阿倍野の教会の大祭に参り、直会に頂いた冊子に、伊藤先生のお話がのっていた。それは先生が若い時に聞かれた話で、あるまま母が、何かにつけてまま子につらくあたる。食事の時に身のない魚の頭をまま子につけると、その子は「有り難い有り難い、お母さんは私に人の頭になるようにと思うて頭ばかりつけて下さる」と喜ぶ。骨ばかりの頭をつけても、喜ぶまま子を見てそれならと、まま母は尾っぽをつけた。
しっぽのことです。そうするとその子は「お母さんなればこそ、私に王さんになるように、と思うて尾っぽをつけて下さる、有り難い有り難い」』是は大阪弁で言うと、尾を王さんという風な言い方をしますよね。そういう風に私に王さんになる様にと思うて尾っぽをつけて下さる有り難い有り難い、と言うて喜ぶ。『それならと、まま母が魚の身のある真ん中のところをつけると、その子は「ああ勿体ないああ勿体ない、私の様な者に魚の身のある真ん中の所をつけて下さる」と言うて喜んだと言うのである。
先生はこの話を聞かれて肌身にしみ「よし自分の一生はこれでいこう」と決心されたという事である、先生の信心はこの決心を貫いてこられたものであると思った』とあります。是です。ね、例えばこの話は例え話の様な、言うなら落語か何かである様な話なですけれども、その話を頂いてその若い先生がです、伊藤コウと言う先生が若い時にこの話を聞かれてです、「よし私の一生はこれでいこう」と思われた事なんです。いわゆる話を聞いてそのように練り出された訳です。
しかもね、それを貫いてこられたと言う所に、今日の阿倍野教会があると言う事。私も随分その阿倍野の先生のあの有り難いと言うものの中から、あれだけの人が助かる程しの事になって来たが、ああいう有り難いと言う様な、あの有り難い真に有り難い、ああいうお届けが出来るような、内容にはどういう信心したらおかげが頂けるじゃろうかと、まあそれこそあれ以来十五年にもなりますか、思い続けて来た。
たまたま私はこのそこん所だけを、読ませて下さる神様の御神慮にも有り難いと思わせて頂いたがです、例えばそう言う落語のネタの中から出てくる様なお話を聞かれてでもです、先生が若い時にその話を聞かれて、「私の一生は是でいこうと決心された」。しかもそれを、そんなら貫かれた、七十八歳になられる今日迄それを貫かれた。成程年をとるほど有り難いと思う事が増えてくるという事が分かりますね皆さん。
それと同じような御理解はここでどれだけ頂くか分かりません。教祖様もこの方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰せられるのだから、喜ばにゃ喜ばにゃと言いよるけれども果たしてどれだけ喜んでいきよるだろうか。様々な問題がある。様々な難儀に直面する。信心させて頂いておるから神様に心を向ける、お取次を頂いてご理解を頂くと、何とはなしに心がスッキリするというか、心が今まで情けない情けないと思うたり、腹が立つ腹が立つと思うておった事がです。
それを押さえるところまでは合楽の人達はおかげ頂いておるように思うんですね。合楽で、そんなら十年もけいこしておる人ならば。そんな感じがします。皆さんでもそうでしょう。これは私自身もそうです。やはり私でもいつも心の中に、それこそ胸がふさがるように思う事があります、けれども神様にお願いさせて頂いて、それはああぞこうぞとお知らせを頂くと、心が言うならば開けてくる。
昨日もある人の、お取次をさせて頂いた。それはまあ本当に難儀な問題である。もうそれこそ人間関係が卍巴に、もうどれもこれもが、それじゃ助かりようがなかね、と言うような状態である。それを聞かせて頂いて神様にお取次させて頂きよりましたらね、「争」という字を頂く。争う戦争の「争」。争う書いてみて下さい争う。そうしてその横に「青」いと言う字を頂いた。左側の方へ。どういう事になりますか「静」かと言う字になるでしょうが。ね。
青いという事は、ここでは生き生きとした元気な心と仰る。例えばなる程もうどうにも手のつけようのないほどにがんじがらめになったような、例えばそういう難儀な中にあってもです、その問題はたとえば神様にお預けして、棚に上げて、その問題に取り組まずに、その心配に取り組まずにです、新たな心で神様に、生き生きと信心修行が出来る、神様え向こうていくというおかげを頂きゃ、今のその問題もどうにも出来ない問題も、いわゆる丸く治まる、静かになるという事。
もうどうにも出来ない程しの問題でもそのように御理解を頂くとです、ああそうだったか、そうだとこう心の中に思わせてもろうて心が平生になる。そこ迄は合楽の方達は私をはじめ皆な頂いておられるように思うんです。どうでしょうか。ここ迄頂いとかなきゃ駄目です。けれども伊藤先生の場合はそれから先がまだある。ね、そこんにきがいわゆる今日の御理解から言うと、話を聞いて練り出すという事である。
そう言う、たとえばお説教を聞かれた、そん時に私の一生はこれでいこうと言う事を、七十八になられる今日まで貫いて来ておられる。それは身もついていない頭ばかりをつけられてもです、お礼を言うとられる。ね。私はお母さんが人の頭になるようにと思うて頭をつけて下さるんだと、さあそこでしっぽをつけた尾をつけた、そしたらお母さんなればこそ私に王さんになるようにと言うてしっぽ、尾をつけて下さると喜ぶ。問題はそれをじっと辛抱しておるとか、今にみておれとか、とっ言った様なものではなくて、それを喜ぶというところにあるのです、私共と伊藤先生の相違が。
まん中の身をつけられりゃもういよいよ勿体ない、私ぐらいな者にこういう身をつけてもろうてと言うて喜ぶ。もうどちらへ転んでも喜ぶ。それを貫こうと決心されたというところなんです。今日の阿倍野教会の御比礼は。私はそれだと思う。理屈じゃない。なる程、阿倍野の先生がおっしゃったという、一言でもよいから何か教えを下さい、と言うて明度先生がお尋ねになられたところが、奥さんの方が、そしたら信心をさせて頂いておると、年をとる程有り難いと思う事が増えてまいりますと。
これはもういわばそういう信心をなさっておいでられた、阿倍野の先生でなからなければ言えない言葉だと。教祖もそれと同じように、信心をすれば一年一年有り難うなってくると仰せられるのもです、その阿倍野の先生のような生き方をさせて頂くから、一年一年有り難うなってくるのです。おかげが増えてくるから、一年一年有り難うなってくるのです。おかげがいつも同じであるのに、一年一年有り難うなってくるはずはないです。ふりかえって見ると十年よりも二十年、二十年よりも三十年。
例えば経つほど、おかげを受けておるという事実をです、が増えてくるから有り難うなってくる。お話を聞いてこの様な素晴らしいです、私は決心が出来るとか、心から練り出す事が出来るという事はもうとに角素晴らしい事だなとこう思う。私共もあらためてです、様々な問題を、時に、ああどうした難儀なことだろうかと思うようなことでも、お取次ぎを頂くとです、それを難儀を難儀と感じんですむ所迄は、合楽の皆さんは頂いておられるように思うが、どうでしょうか。
これだけでも大変な事なんです。素晴らしい事なんです。けれどもそれに対してです、本当にお礼を申し上げれる、喜べれる心と言う所なんです。それが私共の場合はまだまだ欠げておるという事です。しかもそれに徹していくという事。皆さんひとつ本気で不平どん不足ども言う段じゃない、お礼を申し上げさせて頂けれる信心をですね、私は頂かにゃいけん。その心が和賀心。ただ自分の心が治まったと、はあ御理解を頂くとそうだと、思うまでは和賀心じゃない、ただ心が治まったというだけの事。
いわゆる賀の心、先日からも申しますように賀びの心、賀の心と言うのは難儀のひとつ向うにあるのが賀の心だという、それがおかげを呼ぶ心だと、いう風に聞いて頂きましたですね。昨日一昨日でしたか。どのような場合であってもそこから喜ばして頂けれる道をです、体得させて頂かなきゃいけん。信心は話を聞くだけが能でない。話を聞きながらもです、絶えず心の中に練らなきゃいけん。
ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、そして自分の心に本当におかげの頂けれる心を、その話によってヒントを得て、いわゆる言外の言、言葉の外の言葉という、言うなら話の心と言う、その心を私共が味あわせて頂くという信心にならなければならない。その練りだすという事についてです、まあいうなら最高の練りだし方をなさった、いうなら伊藤コウ先生のです、七十八年の御信心の中から、信心をしておれば段々有り難い事が増えてくると言えれる程しのね。
信心をひとつ身につけていきたいと思う。そしてどのような事の中からでも有り難いとお礼の言えれるような信心を、ひとつ本気で学びとらせて頂きたいと思う。とてもとても一生懸命の神様へうち向かう信心修行が出来ておらなければ、それを受けとめる事は出来ません。してみると信心は、此の方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるとこう仰る。
話を聞いて助かると言う事は話を聞く事によって心が開ける。話を聞く事によって、素晴らしいおかげの頂ける事が練り出せれるからおかげを頂くのです。ですから練り出す事がそう言うおかげにつながる程しの、私は、練り出し方でなければいけない。それにお話を聞いておかげの頂けないような事に結びつけたり、練り出してゆくのであってはつまらん。してみると話を聞くだけが能ではない、わが心からも練り出すがよいという御理解と、此の方の道は祈念祈祷で助かるのではない。
話を聞いて助かるとみ教えくださる御理解がひとつも矛盾ではない、つながっておるという事が分かります。 だから勿論練り出すだけでもいかん、腕こまねいてただ練り出すだけでもいかん、それは言うなら思索の信心、話を聞かなければならない、本当の良い話を聞かせてもらわなければならない。話を聞いて心が清まる、だけではない、そこからこれは例えば伊藤コウ先生が、そのような受けとめ方をなさって、心からそのように練り出されたようにです。
私の一生はこれでいこうと決められたそれが、今日迄続けられておられると言う所にです、阿倍野の教会の信心があると言う事を、気付か初めて分からせて頂いた。十五年間求め続けたのが、ここにその原因があったという事が分かった。そこで私もですそう言うあり方に本気でならして頂き、ただ自分の胸を治めるだけではなくて、その事に対して、お礼の言えれる信心をこれから身につけていかなければならんと思うのでございます。
どうぞ。